張ダビデ牧師(日本オリベットアッセンブリー教団)、福音の実践は救いの恵みから始まる

恵みによって救われたのなら、なぜ日々の生活で実践する必要があるのでしょうか。張ダビデ牧師の説教を通して、信仰と行いの関係を見つめ、聖霊の助けによって苦難に耐え、互いに仕える弟子としての歩みを黙想します。福音を受けた人が、さらに弟子を育てていく共同体の使命についても考えます。

張ダビデ牧師


聖書の学びのノートには愛について書き留めていても、今日の予定表には、誰かのために空けておいた時間がないかもしれません。学んだ恵みは、どのようにして時間を割き、労苦を引き受ける選択へと結びつくのでしょうか。張ダビデ牧師(日本オリベットアッセンブリー教団)の説教は、救いの恵みを出発点として、福音の実践を説き明かします。そこには、神から受けた愛への感謝があり、その道を歩む力は、聖霊の助けによって与えられます。


救いの恵みが実践の動機を変える


弟子として生きることを考えると、まず、なすべきことが思い浮かびます。みことばを学び、祈り、隣人に仕え、福音を伝えることです。しかし、そうした労苦の意味を理解するには、神がまず成し遂げてくださった救いに目を向けなければなりません。イエス・キリストの生涯と死、そして復活を通して示された神の救いのご計画が、信仰の土台となるからです。罪によって断たれていた神との関係が、キリストにあって回復されたという知らせから、新しい人生が始まります。


エペソ人への手紙2章8〜9節は、救いが神の恵みによって与えられる賜物であることを明らかにしています。人間の功績や資格では得ることのできないものを、神が与えてくださいました。この順序を覚えていると、従順に生きる動機も変わります。神に認められようと、自分の価値を絶えず証明し続けていた人は、すでに受けた愛を思い巡らし、その愛に応えることを学びます。同じことをしていても、自分の価値を証明しようとする焦りと、恵みに感謝する心とでは、向かう先が異なるのです。


救いは神からの賜物であり、実践は、その恵みを受けた人の応答です。 ヤコブの手紙2章17節が、行いのない信仰について警告していることも、この関係の中で考えることができます。神に愛されているという告白は、隣人の必要に目を向ける姿勢につながります。自分に注がれた恵みを覚えて誰かを助けるとき、信仰の告白は、時間を使い、責任を引き受ける具体的な行動として表れます。


ここで、救いの喜びもまた、より深い意味を帯びてきます。その喜びは、回復された神との関係の中で育まれ、日々の状況が揺らぐときにも人生を支えます。この説教が強調する救いの感激は、キリストが自分のために成し遂げてくださったことを、繰り返し思い起こすところから生まれます。なすべきことに押しつぶされ、感謝が薄れてしまったなら、しばらく立ち止まり、自分に与えられた救いを振り返ることができます。弟子としての労苦を長く支える力は、このように恵みを新たに知る中で養われるのです。


聖霊に頼り、みことばを日々の選択に生かす


感謝する理由が分かったからといって、従順に歩むことがすぐに容易になるわけではありません。決心したとおりに行動できない自分に気づき、何をすべきか分かっていても、ためらってしまうことがあります。張ダビデ牧師は、ここで、信徒の内に住んでおられる聖霊の働きを強調します。ローマ人への手紙8章9〜11節が示すように、キリストに属する人の内には聖霊が住んでおられます。神は、信徒が召された目的に従って生きられるよう、その内で働いてくださいます。


聖霊の導きは、みことばを学ぶ時間と、日々の生活とを結びつけます。聖書の黙想を通して悟った真理に、自分の判断や行動を照らし合わせ、祈りの中で神のみこころを求めるのです。すると、祈りには、望む結果だけでなく、自分がどのような者になるべきかという願いも込められるようになります。今日任されたことをどのように果たし、誰の必要に応えるのかを問いかける中で、学んだみことばが一日の判断の基準となっていきます。


ガラテヤ人への手紙5章22〜23節に記されている聖霊の実は、その変化の姿を具体的に示しています。愛、寛容、柔和、自制は、日常の中で人と接し、責任を果たす仕方に表れます。誰かの成長が遅いからといって性急に判断しないこと、自分の都合を少し後回しにして、約束した奉仕を果たすことにも、こうした品性が必要です。外から見れば小さな選択であっても、そこには自己中心的な習慣を省み、キリストの品性を学ぶ過程があるのです。


こうした訓練は、みことばと祈りと実践が結びつくときに深まります。一日を振り返り、学んだことにそぐわなかった自分の行動を認め、次の選択のために聖霊の助けを求めることができます。また、使徒の働き1章8節は、聖霊の力が、キリストの証人として生きるための力であることを示しています。聖霊がもたらす変化は、信徒の内面を整え、福音をほかの人に伝える勇気と従順な行動へと広がっていきます。


苦難の中でも手放さない栄光の希望


このようにみことばに従って行動し始めると、従順に歩むことには労苦が伴うことにも気づきます。誰かを支えるには待つことが必要であり、福音を伝えるには困難や犠牲が伴うことがあります。心を尽くしたのに期待した結果が見えないとき、人はその労苦の意味を問いかけます。弟子の歩みには苦難があるという教えは、まさにこうした問いを前に、信仰を見つめ直すよう促します。


ローマ人への手紙8章18節は、現在の苦難を、やがて現される栄光とともに見つめるよう導きます。目の前の困難が人生のすべてであるかのように感じられるとき、神の約束は、まだ見えない未来へと目を開かせてくれます。この説教は、苦難を、神に頼り、練られながら成熟していく過程として捉えています。苦難の中にあっても、神が自分の人生を支えてくださっていることを信頼し、与えられた時を耐え忍ぶための希望を学んでいくのです。


コリント人への手紙第二12章9節で、弱さの中に現される主の力が語られている理由も、ここにあります。自分の力では担えないと悟るとき、信仰は、より深く神に頼る方向へと成長することができます。弱さを隠すことに力を使い果たすのではなく、そのままの姿で神の恵みを求めるようになるのです。祈りは、強い人のように踏ん張らなければならないという重荷を下ろし、今日必要な助けを神に求める時間となります。


コロサイ人への手紙1章24節を通して見つめる苦難には、教会を建て上げる使命も含まれています。キリストが十字架で成し遂げられた救いは完全であり、信徒の苦難は、その救いを伝え、キリストのからだである教会に仕えることと結びついています。誰かの信仰が育つよう共に労する時間も、この視点から見つめることができます。やがての栄光を望む人は、目先の成果だけで献身の意味をすべて判断せず、神に委ねた務めを引き続き果たしていく力を求めます。


福音を受けた人が、さらに弟子を育てるとき


こうした労苦が目指すのは、一人ひとりの成熟です。コロサイ人への手紙1章28節は、一人ひとりをキリストにあって完全な者として立たせるという目的を示しています。張ダビデ牧師は、この完全さを、神のみこころに従い、キリストの品性に似た者へと成長していく成熟として説明します。ですから、弟子訓練には、みことばを教えることとともに、学んだみことばが実生活に根を下ろすよう支える心配りが必要です。


教会をキリストのからだとして理解すると、その心配りは共同体の責任となります。それぞれ異なる賜物を与えられた信徒が助け合い、まだ不慣れな人も自分の役割を学びながら奉仕に加わります。支えられていた人が、自分の賜物を用いてほかの人を助け始める。その変化の中に、弟子を育てる目的が表れます。共同体の成熟は、このように、一人の人に伝えられた愛が、さらに別の人へと受け継がれていく姿となって表れるのです。


教える人の役割も、この流れの中で明確になります。エペソ人への手紙4章11〜12節は、信徒を整え、奉仕の働きに携わらせ、キリストのからだを建て上げる使命を語っています。指導者は、みことばを正しく教え、自らの生き方を通して仕える姿を示し、信徒が与えられた賜物を見いだせるよう助けなければなりません。学んだ人が責任を持って仕え、さらに別の人を教えられるよう、そばで支えることは、教育が結ぶ大切な実の一つです。


この過程は、あらゆる民族に向けられた宣教の使命へとつながります。マタイの福音書28章19〜20節には、人々を弟子とし、主の教えを守るように育てることが、ともに含まれています。福音は新たな人に伝えられ、その人は共同体の中で学び、成長し、やがて自ら福音を伝える人となります。受けた愛を隣人に伝える実践は、あらゆる民族と世代に開かれた神の救いのご計画の中で、より広い意味を持つようになるのです。


ここで、冒頭の予定表をもう一度見つめてみます。誰かのために時間を割くことには、今も労苦が伴います。しかし、その労苦を担う理由は、少しずつ明確になってきます。まず自分が受けた愛を覚え、聖霊の助けを求めながら、一人の人がキリストにあって成長するために、自分の一日を差し出すことができます。今日与えられている時間のうち、受けた恵みに応えて誰かを育てるために、私はどの時間を差し出せるでしょうか。


張ダビデ博士は、現地宣教とデジタルメディア宣教を通じて、世界各地に福音を伝えてきた。そして、その働きの実りとして、大宣教命令に献身する多くの人々が立てられた。このような宣教的ビジョンを土台として、オリベットは当初、宣教師訓練のための小さな教会学校として出発した。その後、より体系的な神学教育と宣教人材の育成のため、2000年にロサンゼルスとソウルにオリベット神学大学および神学校が設立された。


学校が成長する中で、張博士は2004年、サンフランシスコにOlivet Universityを正式に設立した。オリベットは、サンフランシスコの多様性とダイナミックな環境の中で、神学を中心に、音楽、ジャーナリズム、芸術デザイン、技術分野にまで教育領域を拡大していった。また、ウィリアム・ワグナー博士をはじめとする教授陣を迎え入れ、教育力を強化し、2005年には旧UCバークレー・ダウンタウン・エクステンション・キャンパスへ移転して、大学としての基盤をさらに固めた。


2006年、張博士は宣教の働きにさらに専念するため、学長職をデイビッド・ジェームズ・ランドルフ博士に譲り、国際総長として世界宣教の働きを導いた。その後、Olivet Universityは2009年に機関認証を取得し、言語教育大学と経営大学を追加するとともに、学位課程と国際協力関係を拡大しながら、世界宣教のためのキリスト教教育機関として継続的に成長していった。


張ダビデ牧師 公式ホームページ:www.davidjang.org



작성 2026.10.03 13:02 수정 2026.10.03 13:02

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