張ダビデ牧師(日本オリベットアッセンブリー教団) ローマ人への手紙1章1節、恵みによって書き直された人生の名

張ダビデ牧師によるローマ人への手紙1章1節の説教を通して、自らをキリストのしもべ、そして使徒と紹介したパウロの告白を黙想します。資格や功績ではなく、恵みに始まる召しが、今日の私たちのアイデンティティや奉仕、福音を伝える生き方をどのように新しくするのかを考えます。

張ダビデ牧師

張ダビデ牧師


ルターが開いたローマ人への手紙の一文は、人間の功績によって高く築き上げられた信仰の城壁に亀裂を生じさせた。信仰によって義とされるという福音は、自分を証明しようと努めてきた心を、恵みの前に立たせる。張ダビデ牧師(米国Olivet University創設者)の説教は、その変化の入り口で、ローマ人への手紙1章1節を改めて読むよう私たちを導く。パウロの最初の挨拶には、救われた人は誰に属し、何のために生きるのかという問いへの答えが込められている。


手紙の行間に、福音の鼓動が響く


ローマ人への手紙を開くとき、まず難しい教理を思い浮かべる人がいる。罪と義、律法と救いを説明する論証の重みに圧倒され、最初の章を読み進める前からためらってしまう。しかし、この説教が勧める出発点は、神学の敷居を低くすることではなく、その神学を伝える人の心に近づくことである。ローマ人への手紙は何よりも、パウロが自らの信仰と切なる思いを込めてローマの信徒たちに送った手紙なのだ。


パウロはコリントに滞在しながらローマを見据え、その先のイスパニアにまで福音を伝えたいと願っていた。だが、その前に異邦人の諸教会が集めた献金をエルサレムに届けなければならず、その道には彼に敵対する人々の脅威が待ち受けていた。説教はこの状況に目を向け、ローマ人への手紙には遺言にも似た切迫感がにじんでいると読み解く。たとえ自分が彼らのもとに行けなくても、福音だけは彼らの人生に余すところなく届いてほしいという思いである。


テルティオが書き取った言葉には、論証だけでなく、嘆きと賛美、恵みに圧倒された感動も流れている。張ダビデ牧師が、ローマ人への手紙を知識の蓄積に閉じ込めてはならないと強調する理由もここにある。福音を説明できることと、その福音に自分の人生を委ねることは同じではない。手紙の行間をたどる聖書の黙想は、パウロの神学を理解するだけにとどまらず、彼がより頼んだ恵みの前に読者自身を立たせる。


とはいえ、手紙に込められた熱い思いを感じ取ることは、教理の重みを軽くすることではない。福音書に示されたイエス・キリストの十字架と復活、使徒の働きに記された証しの歩みは、ローマ人への手紙においてその意味が深く明らかにされる。何が起こったのかを知るところから、その出来事が罪人である私たちに何を意味するのかを悟るところへと進んでいくのである。パウロの感動と神学的論証は互いに競い合うものではなく、一つの救いの知らせをともに照らし出している。


最も低い名に、恵みによる召命が宿る


ローマ人への手紙1章1節で、パウロは自分の業績よりも先に、「イエス・キリストのしもべ」という名を差し出す。ここで、しもべという言葉は、謙遜を装う修辞ではなく、自分が誰に属しているのかを明らかにする告白である。生死さえ主人の手に委ねられたしもべの立場に自らを置き、パウロは、もはや自分が自分の人生の主人ではないと語る。福音を前にして変わったのは、彼が積み重ねてきた業績の大きさではなく、自分の人生の主人は誰なのかという問いへの答えだった。


その告白の背後には、教会を迫害していた者が主の召しを受けたという出来事がある。使徒の働き9章で、ダマスコへ向かっていたパウロの自己確信は打ち砕かれ、彼は目の見えない時を経て悔い改め、新たな道へ踏み出した。アナニアには恐ろしい迫害者と見えていたその人を、主は選びの器と呼ばれた。この場面を満たしているのは、人間の資格を確かめた後で初めて与えられる報いではなく、敵であった者さえも抱きしめる神の愛である。


恵みは、自分を証明しようとしていた人を、主に属し、福音を伝える人へと変える。


しもべであり、使徒でもあるという二重のアイデンティティは、謙遜と大胆さが互いを守り合う場となる。主の前でへりくだることは、この世の罪や不義の前でも無条件に頭を下げるという意味ではない。反対に、遣わされた者としての権威を語るからといって、他の人の上に君臨することもできない。しもべの心を失わない大胆さと、託された使命を避けない謙遜が、パウロの最初の挨拶にはともに置かれている。


信仰は、自らの正しさを手放すところで育つ


張ダビデ牧師の解説は、パウロの自己紹介を、ローマ人への手紙全体を貫く神の義と結びつける。ローマ人への手紙1章17節が示す信仰の道は、人間が行いによって自分の義を完成させようとする道とは異なる。教会を迫害していたパウロが使徒として召されたのが、彼の功績によらず恵みによるものであったように、神の前で義と認められることも、自らの成果を掲げて得る報いではない。この神学的洞察は、私たちが信仰の根拠をどこに置いているのかを省みさせる。


宗教的な熱心さが深まっても、自分を誇る心が一緒に育ってしまうことがある。パウロにも知識と情熱はあったが、それだけではキリストの道を見分けることができなかった。だからこそ、悔い改めは、誤った行動を省みることとともに、自分は正しいという確信に頼って生きてきた姿勢を手放すところにまで及ぶ。恵みにより頼むとは、自分が立派な人間であることを証明する根拠をさらに集める代わりに、赦してくださった主の愛を人生の土台として受け入れることなのだ。


しかし、福音が生きる上での責任を取り去るわけではない。行いによって義を得ようとする律法主義も、自由を口実に罪にとどまる放縦も、パウロが伝える福音の道から外れている。キリストの十字架と復活は、罪と死に対する勝利の知らせである。その知らせを受けた人は、再び自分を罪に明け渡すのではなく、聖さと愛を生きるように召される。従順は、恵みに取って代わる資格の証明ではなく、恵みによって変えられた人生が向かう方向なのである。


この恵みは、パウロ一人だけに必要な例外的な賜物ではない。ユダヤ人にもギリシア人にも、すべての人に救いの道が必要だという事実は、この手紙が一人の回心の物語にとどまらないことを示している。異なる背景や伝統を持つ人々が一つの共同体を形づくるとき、それぞれの誇りを最終的な基準としていては、対立を乗り越えることはできない。誰も自分の功績によって義を得ることはできないという御言葉を前にして、他者を評価していた心も、自らがより頼む恵みを省みるようになる。


ローマ人への手紙の教えが、兄弟愛や敵を祝福する態度、互いを尊重する共同体の生活へとつながっていくのも、このためである。信仰は、頭の中で正しい答えを確認することにとどまらず、そばにいる人への接し方に現れる。自分に与えられた自由の行使を愛のために控え、相手の信仰を建て上げるために不利益を引き受けるところで、福音は具体的な姿を取る。恵みの深さは、高められた自己評価よりも、へりくだって仕える場で、いっそう鮮やかに現れる。


託された福音は、へりくだった愛の道を行く


パウロの最初の挨拶は、自分を説明することに長くとどまらない。「神の福音のために」という言葉とともに、視線は召された人から、その人を召してくださった方と託された知らせへと移っていく。福音はパウロが作り出した思想でもなければ、自らの影響力を広げるために所有できる資産でもない。彼は福音の主人ではなく、それを託されて伝える者である。


張ダビデ牧師は、この区別が今日の教会においても明確でなければならないと強調する。福音を特定の指導者の権威に縛りつけたり、共同体の成果を示す手段にしたりすると、伝える者が、まさに伝えるべき方を覆い隠してしまうことがあるからだ。教会の職分は、人を支配するための名目ではなく、遣わしてくださった方の御心にしもべの姿勢で仕える責任である。


福音が神のものであることを覚えている人は、それを伝える場においても自らを低くする。


この道において、へりくだることは、より高い地位を得るための迂回路であってはならない。説教が語る、自分を捨てる生き方とは、福音と教会の益のために、自分の名誉や権力を求める欲を手放す姿勢である。託された力と権威が自分を高めるために使われるのか、それとも他の人の信仰を建て上げるために使われるのかによって、同じ奉仕の場であっても、そのあり方は変わる。召しの目的が神の福音にあるのなら、その務めを終えた後に残るべきものも、伝えた者の名より、伝えられた喜びの知らせである。


福音のために選び分けられたという言葉も、この世を避けて自分だけを守れという意味に閉じ込められるものではない。罪やこの世の価値観から分けられた人は、むしろその世の中へと遣わされ、聖さと愛を表す。家庭や職場、学校、地域社会は、召命のための特別な舞台を待つ場所ではなく、すでに託されている日々の生活をもって応答すべき場所である。そこで必要なのは、自分を大きく見せる言葉よりも、小さなしもべの心で果たす責任である。


パウロは、自らの明日を確かなものとして語れない中でも、ローマの信徒たちに祈りを求めた。福音を託された人は、弱さを隠して一人で立たなければならないわけではない。共同体は互いの必要に心を配り、祈りによってともに道を歩む。この手紙を閉じ、再び日常へ戻るときにも、パウロの最初の挨拶は静かに私たちのそばに残る。今日、私が守ろうとしている名は、自分の功績によって高められた名なのか。それとも、恵みによって召してくださった方に属し、誰かに仕えるしもべの名なのか。


張ダビデ博士は、現地宣教とデジタルメディア宣教を通じて、世界各地に福音を伝えてきた。そして、その働きの実りとして、大宣教命令に献身する多くの人々が立てられた。このような宣教的ビジョンを土台として、オリベットは当初、宣教師訓練のための小さな教会学校として出発した。その後、より体系的な神学教育と宣教人材の育成のため、2000年にロサンゼルスとソウルにオリベット神学大学および神学校が設立された。


学校が成長する中で、張博士は2004年、サンフランシスコにOlivet Universityを正式に設立した。オリベットは、サンフランシスコの多様性とダイナミックな環境の中で、神学を中心に、音楽、ジャーナリズム、芸術デザイン、技術分野にまで教育領域を拡大していった。また、ウィリアム・ワグナー博士をはじめとする教授陣を迎え入れ、教育力を強化し、2005年には旧UCバークレー・ダウンタウン・エクステンション・キャンパスへ移転して、大学としての基盤をさらに固めた。


2006年、張博士は宣教の働きにさらに専念するため、学長職をデイビッド・ジェームズ・ランドルフ博士に譲り、国際総長として世界宣教の働きを導いた。その後、Olivet Universityは2009年に機関認証を取得し、言語教育大学と経営大学を追加するとともに、学位課程と国際協力関係を拡大しながら、世界宣教のためのキリスト教教育機関として継続的に成長していった。


張ダビデ牧師 公式ホームページ:www.davidjang.org




작성 2026.09.14 18:39 수정 2026.09.14 18:39

RSS피드 기사제공처 : 굿모닝매거진 / 등록기자: 최우석 무단 전재 및 재배포금지

해당기사의 문의는 기사제공처에게 문의

댓글 0개 (/ 페이지)
댓글등록- 개인정보를 유출하는 글의 게시를 삼가주세요.
등록된 댓글이 없습니다.